国分というアニメの教師が偉大

 もう十年以上前、理想とする男性像はパトレイバーの後藤課長でした。 そのうち歳を取って、老年期には攻殻機動隊の荒巻で、とここまで生きてきました。(あ、実写版の荒巻はクソです。あくまでアニメ版の方)
 
 そんな中、最近新たに「こいつ格好エエ...」と唖然とするおっさんを発見。
 それは「三月のライオン」の二期に登場する国分という教師。
 この作品、本来は将棋がテーマなんだけど、将棋に全く疎遠な私でも十分楽しめる、様々な人模様を現した傑作です。 その一つが中学でのイジメ。 最も生徒が頼りにするはずの担任すら「面倒を起こさないでちょうだい」と逃げる中で、最終的に登場したのがこの学年主任なんだけど、こいつがブレない。

Kokubu

 風体ははっきり言ってダサくて、下手するとヒール役でもいいくらいのアピアランス。 が、この独断と偏見に満ちた私ですら、生徒の気持ちを慮りすぎて言葉に詰まったり濁らせたりすることが多い昨今、この国分は迷いがない。

 いじめの張本人の親が、「うちの娘がいじめたという証拠があるんですか?」と自信たっぷりに詰め寄るのに対し、「証拠?そんなものはありませんよ」と突っぱねる。 「強いて言うなら、いじめられたという生徒のSOSが証拠です」と続け、これに対して「証拠もないのに!」と居丈高に攻める母親に、「じゃ、おたくの娘さんがいじめていないという証拠があるんですか?」と切り返す。
 
 かっけえ〜〜〜
 証拠がないからとのらりくらり逃げまくる、どこかの国の政治家や官僚エリートに見せてやりたい。
 
 まぁ、これだけだとフィクションに有り勝ちな勧善懲悪で終わるんだけど、その後、謝ったんだからもういいでしょ、と開き直るいじめた生徒を呼び出しての個人懇談。
 「先生に私の気持ちなんてわからないよ」
 そうそう、これね。 一見心情の吐露に見えるんだけど、単なる必勝セリフ。 ところがこの教師、
 「うん、だから今聴いてるんだよ。話そうぜっ」
 と切り返して王手。

 いじめた側を単に悪者として突き放すのではなく、指導も忘れない。 しかし相手の甘っちょろい話法に一切ブレない。
 揺るぎないのである。 

 非常勤とはいえ、二十年以上も教職を続けていると、時に何かを悟ったような気持ちになることがあります。 しかしそれは時に危険なことで、より学生の側に立った判断を心がけねば、とも戒めるようにもしています。
 ただ、それはともすれば切れ味の鋭い判断と言葉を鈍らせ、結果として相手に通じないことも経験しています。 そんな中で見たこの学年主任の迷いのなさ。
 
 う〜む、知り合いが徐々に定年だ、早期退職だと言い出す歳になっても、まだ目指せる理想像に出会えたのは嬉しいし、だからアニメ(というが原作は漫画だけど)はやめられない、というわけです。
 
 てなわけで、年齢順に並べ替えると、後藤→国分→荒巻、ということで...
 
※引用:NHK 三月のライオン二期 13話

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外国語で授業に参加すると頭が悪くなった気がする

 「外国語で授業に参加すると頭が悪くなった気がする」の続きでしたね。
 考えてみると、この放送大学の認知心理学で、この最終回のみちょっと異色というか、なんでそれを?という気がしないでもありませんでした。 つまり、担当教授がずっと考えていた持論を最後に入れたとも取れます。
 つまりは、それだけ日本人の思考と語学を専門の立場から常々考えられ続けていた、と。
 
 結論から言うと、国家や企業の一大事に関わるような交渉の場に母国語以外で挑むのなら、専門の通訳をつけろ、ということでした。
 誤解して欲しく無いのは、これは非常に高いレベルの話です。 なんだ、やっぱり英語の勉強なんていらないんだ、と短絡するものではありません。
 むしろ、そんな責任重大な場所に参加できる人であるからには、それなりの教育を受け、それを理解できる頭脳を持っているはずです。 にもかからず、交渉の場で母国語以外の理解に脳力を割かれるのは、時に国や企業の存続を脅かすほどのミスに繋がる可能性がある、つまりそれだけ母国語以外での思考は、本来の思考脳力を妨げる、という主張です。

 んで、これには補足があって、例えばドイツ人は英語で高度な授業や交渉ごとに参加するのはそれほど苦ではなく、これは客観的な調査でも証明されています。 つまりは母国語の言語系が何に属するかが非常に重要となります。
 いわゆる英語系と言うか、ラテン語諸群は文法や単語に共通項が多数あります。 だから欧米によくいる、数カ国語ペラペラというのは、その内容が同系統の言語であれば、それは我々、どの言語系にも属さない日本語を母国語にしている立場から想像するほどすごいことでは無いと言うのは、最近ではよく理解されているところです。
 その客観的観察手法によれば、日本語が英語を理解して思考するには言語系が全く異なるために、相当な思考力が割かれると言うことで、であれば、非常に重要な交渉ごとの席では通訳をつけろ、という担当教授の主張は非常に説得力がありました。
 
 んで、この方、東大の教授でもありますから、そのレベルの人々のこだわりもよくご存知で、そんな重要な席に挑むのに通訳使うのか?大丈夫か、こいつ、という他からの目、そして何より当事者のプライドにも触れられています。 ならばいっそ、異国語での交渉ごとには通訳をつけるのを規則で定めてしまえばいい、という提言も付け加えてられており、逆にそれだけ、専門の立場から見た、言語系統の違う外国語思考の難しさを改めて考えさせられた講義でした。
 
 再度付け加えておきますが、観光や日常生活、民間外交なんて話をしているのではありません。 日本語の言語系が特殊ゆえに、英語に限らず他の言語に学び、親しむことは非常に重要です。 が、たまに言語学校のコピーにある「外国語で思考できるほどの語学力」ってのには私はもともと疑念を抱いており、それだけの努力を惜しまず、成就するだけの脳力があるのなら、母国語でさらなる専門分野の力を伸ばしたほうがいいのでは?と改めて思うようになりました。
 
 あ、この認知心理学の授業、2018年の1学期にも組み込まれているようですので、興味のある方は是非ご覧ください。
 
 いや、脳って面白いのよ、実際。

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2017 2学期の放送大学「認知心理学」

 ここ二年ほど、学校の行き帰りに放送大学を聴いています。
 これまで二十本近くのコンテンツを勉強させていただいた中、先に終わった2017年2学期の「認知心理学」と「認知神経科学」が異常なほど面白かったので報告しておきます。
 
 認知、とつくとすぐに認知症を思いつく人が多いと思います。 が、今時は我々の時代の心理学というのが認知心理学という名前になっている、と認識して良いようです。
 非常勤ながら講師として専門学校で長年生徒を教えていると、はて、そもそも「教える」ということはどういうことなんだろう、と考えることがあります。
 もちろんそれは他人の脳に働きかけ続け、私のようにグラフィックデザインをパソコン操作を通じて教えていると、手を動かした作業も伝えることになります。 さて、それらは他人の脳の中でどう根付き、どう生かされるのか、あるいは残念ながら忘れ去られるのか。
 
 そういうともすれば禅問答的な泥沼に陥りそうな疑問を、最新の科学で解き明かしてくれるのがこの二つの講義でした。
 前者はより概念的に、後者はより生物学的なアプローチで、共に別の講座ながらたまたま同時期に放送されたことにより、ほぼ同じ項目を別の視点から補強し合うという非常に密度の高い時間となりました。
 
 全15回、二つ合わせて30回の内容をまとめるのはとても無理ながら、私なりに新たに得た結論というか仮説は、やはり日本語教育は非常に重要だということ。

 曰く、人の記憶というのはコーヒーの中に溶け込んだミルクのように、最終的にはどろどろに溶けた概念となってしまい、一つ一つはもう形としては存在してないそうです。 ただ、そうなればこそ我々は様々な形と時間から記憶を呼び戻し、それを複数組み立てて思考として完成させるようです。
 
 そのためには宣言記憶という主に言葉主体で、そして手続記憶という主に行動で脳に体験させ、それらが合わさって、長期記憶となることを知りました。
 これを私の授業に当てはめると、専門学校ゆえの実習(手を動かしてアプリケーションを駆使)は当たり前として、それを「体で覚えろ」という昔ながらの徒弟制度の掟で終わるのではなく、正しい言葉で説明することも同時に行わねばならないと見出せます。

 例えば、アプリケーションの操作をするとき、非常によく覚えている機能を利用する場合を除けば、「確かこうしたはず...」と手を動かし、アプリケーション内をさまよいます。 これは行動が主な手続記憶。
 そして「確か色調補正というメニューがあって、その中のレベル補正...」と探すのは言葉であり、宣言記憶を頼りにしているわけです。
 そのとき、言葉が曖昧で、「この辺のこれを適当にこうすれば...」と教えていると、生徒は手探りである手続記憶を忘れてしまうと、もう二度と目当ての機能にたどり着けなくなってしまいます。
 これは教育の、というと大げさなら、一つのレクチャーの失敗となります。

 ということで、日本人であれば母語である日本語でちゃんと教師は教えなくてはならないし、教えられる側も正しい日本語を理解しなければ記憶、ひいては知識や知恵は発達しない、ということを論理的・科学的に教えてもらった気がします。
 
 え?ということは最近はやりの「英語で物が考えられる」「小学校からの英語教育」ってどうよ?って話? という興味を持たれた方、奇しくも認知心理学の最終回では、外国語での学習、つまり留学について非常に興味深い内容に触れられていました。

 触りだけ言うと、30年前に米コーネル大学に留学して学位を取った東大名誉教授ですら、「外国語で授業に参加すると頭が悪くなった気がする」という感想を持った、という非常に興味深い内容だったのですが、あ、長くなった。
 続きはまた今度...

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グループ対抗webアプリをscratchで

 色々な都合でG/W中にも授業があり、時間割も変則的、いつもなら広告専攻とweb専攻で分かれている生徒達を一つにまとめて面倒を見なくてはならなくならず、どうせなら何か面白いことができないかと画策。
 
 二コースともにDTP検定に向けての授業を持っているのですが、この合格率がこのところ横ばい。 それについて特に上からああだこうだとは言われないものの、良いことではありません。
 その対策として、座学だけではなく、小テストなどをもっと小刻みに挟まねばならないね、とは話し合っているんだけど、作るのも、実施するのも、採点するのも結構大変で、なかなか時間が取れません。

 そこで、たまたま二クラスを一つの教室に収めたのを機会に、プロジェクターで検定の過去問を投影、正解した生徒に挙手をさせて両コースで競わせようと考えました。
 ところが、両コースで生徒数が違い、単純な正解者数だけで優劣をつけるわけには行きませんから、生徒数で割った正解率と比較することになります。 となると、計算が必要となる。 ならば、とこういうときこそscratchを使って計算、さらに興味づけのために面白おかしき演出を加えた、グループ対抗webアプリを作りました
 
Gyouji スクリプトの大まかな構成は二時間程度で、さらにブラッシュアップとスプライトの絵、音などでさらに時間はかかったものの、やっぱり学生はゲーム世代ですね。 こういう単純な仕掛けでも昼休みを挟んだ眠たい時間だったにもかかわらず、結構楽しそうにワイワイ楽しんでくれました。

 以前にも授業用としてscratchで本読み用乱数呼び出しアプリってのを作って、それはそれで今でも自分の授業で愛用してます。 ただし、今回のは当然ながら変数が必要で、その入出力、if文による比較判定など、初歩のプログラミング要素だけで実用的なアプリが完成しました。 こういうのはホント、子供向けのプログラミング授業に丁度良い感じのクエストでもありますね。

 今、人材サービス会社のテレビCMにS.ウォズニアックが出てるけど、彼がApple創始者の一人として得た莫大な利益を子供向けの教育に腐心し、なぜだかいつも楽しそうにしている姿が思い浮かびます。

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知恵の浅さに絶望する

 神宮外苑での展示物火災、全ての真実を知る立場にはありませんが、学生がおがくずの上に高出力の白熱灯を置いたという行動に驚きを隠せません。
 
 当事者が少なくとも理系の大学生である限り、中高の基礎的な学習を通じて、白熱灯はフィラメントを熱して光を出すことは理解していただろうし、燃焼の基礎も学習していたはずです。 また当人のみならず、周囲の誰もそれを止めなかったということに、関係者の知恵の浅さを感じざるをえません。

 別の視線から見ると、子供の頃から家の白熱電灯に触ったことがない、そもそも家に白熱灯がなく、その輻射熱を感じたこともなければ、当然点灯で高熱になった電球に触れたこともないという時代背景も影響したのかもしれません。
 しかし実在する全ての危険に対し、体験しなければ対処できないというのも、これまたあまりに低次元の話で、それを補うために教育があって、おかげで我々は数々の事故や病気から身を守っているわけです。

 また、当事者たちは悪意をもって今回の行動をしたわけではないだろうという想像がさらに虚しさを拡大します。 たぶん周囲が暗くなっても子供達がまだ遊んでいる、危ないからもっと明るくしてやろう、という優しさが行動の発端なんじゃないかと思います。 それが仇になったと。
 
 この遺憾はなんなんだろうとしばらく考えていたら、サマーウォーズというアニメが頭に浮かびました。 この中で、主人公がサイバー世界を襲う悪者をほぼ退治しかけた時、突然のコンピューターダウンでピンチに見舞われるシーンがあります。
 原因はアホ役のヤンキーが、「死んだバァちゃんが暑くてかわいそうだ」と、攻撃用コンピューターを冷却していた氷柱を、祖母の亡骸横に勝手に移動したことでした。
 
 この行動をバカと呼ぶのは簡単ながら、根本は人を思う優しさであったわけです。 もしこのヤンキーに少しでも知恵があればとっくに悪役退治は終わっていました。 もちろんこれは物語中の演出であり、それでは話は盛り上がらなかったのですが、現実にこのバカが起こると、親の目の前で子が生きながら焼かれるという地獄を創出してしまうのです。

 そして何よりも当事者たちが田舎の浅学ヤンキーではなく、れっきとした理系大学生だったことに一種の教育の絶望を見てしまった私なのです。

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二回目の学生作品集出版

Illustbook
 二年前に初制作した学生の自費作品集の二巻目が完成しました。
 プロデュースした身としては、初号から毎年継続して行きたかったんだけど、残念ながらあまり盛り上がらず、昨年は未発行に終わりました。 個人的に今年改めてプッシュすることもなく、ほとんど忘れていました。
 
 そしたら夏前に二年生の絵の上手い連中が教室に置いてあるそれを見つけ(彼らは初号発行の時には学校にいなかった)、今年は発行しないのか、と訊いてきました。 いやぁ、盛り上がらなくてと答えたら、少なくとも私たちは参加します、と三名が参加表明。
 確かに三名いれば表1,表4あわせて8ページ完成するなぁ、と再び腰をあげることに。

 ところがこの話を一年生にしたら、思ったより絵を描くのが好きな生徒が多く、幸いなことに結局合計14名が参加することになって、もちろんこれは二年前の初号より多い数です。
 これは頑張らなくちゃね、と忘れ去られていたwebページに手を入れて、トップの絵も改めて学生に頼んで描いてもらって、PHPとかデータベースの点検も開始。 依頼するオンデマンド印刷の料金もデータベースに入力した時のままで、思ったより手がかからなかったのも幸いでした。

 表紙の絵を依頼した学生は実は留学生で、いろいろあったのか、この絵を描き上げると同時に突然帰国。 今までうちの学生に無かったタッチだったので惜しい。
 その表紙絵を邪魔しないように私が文字を入れて、全員のデータチェックを終えて、はたと気づいたのがページ数。 参加者14名は偶数で何となくキリが良いと思い込んでいたのか、これに表1,表4加えたら30ページ、物理的には32ページになるので2ページが白紙となってしまいます。

 これはえらいことですがな、今更誰かに頼むわけにもいかないし、と仕方ないので、あっちのblogで二年前まで作ってたフライトシミュレータ画像をコラージュすることに。 使い回しなので新鮮感はないし、学生はこれらがいかに作られているかピンときてない様子で、「なんで飛行機の写真が並べられてるの?先生の勝手な趣味?状態。 いや、一応3Dアートとして見てくださいね。 このためにペンタブ買ったくらいなんだから。

 それはさておいても、集まった絵はデジタル/アナログあり、画風も幅があってとても良いものになりました。
 いや、中途半端なイラストレーションコースのある学校より上手いんじゃないか、とか。(こういうことはあまり大きな声で言ってはいけないらしい)

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放送大学が面白い

Housoudaigaku

 相変わらず経済状態は「働けど働けど我が暮らし...」状態なので、こんな時は安上がりに好奇心を満足させる方法を見つけなくてはなりません。
 というか、すでに見つけてしまったのが、放送大学。
 
 以前にも少し触れた番組はその後、グラフ構造っていう、いわゆる一般人のいうグラフとは違う非常に難解なレベルにまで進んだのですが、おかげでこれまで全く想像範囲外だったカーナビのルート計算方法がわかりました。

 それ以外にも、途中から見始めたweb解説番組を最初バカにして、電車の中で半分寝ながら聞いていたら、セマンティックwebというところになって、突如難解かつ新鮮な好奇心への挑戦を叩きつけられた気分です。
 そうそう、こういうほとんど理解し終えているんだけど、その先に全く知らなかった最終ステージみたいなゾーンがあると萌える、もとい燃えるというものです。
 一方で、残念ながら私がずっと求めているC言語系プログラミングの授業はまだ見当たりません(TVではなくラジオ版ではあるようですが、未確認)。
 
 ところがそんな低次元な私の不満を笑い飛ばすように、数学以前の計算そのものから解説する授業だとか、大学生の引きこもり&不登校、最初の方を見逃した岡部学長のソフトウエア概観授業など、ちょうど学期間を利用した集中配信でガツンと夏休みの間のボケを防いでくれそうです。

 タバコをやめたり定期的な運動を始めたりして、多分今が私の脳状態のピークであるような気がしています。 というか、この後は生物として当たり前のボケがやってくるわけで、その前に少しでも「知らないってワクワク(c)NHK Eテレ」を精一杯甘受しておきたいと思います。

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右と左がわからない理由

 ここ数年、もしかして、と思いつつ、いや、やっぱりそうだ、と確信を持ってしまったことに、「日本人は左右の区別がつかなくなってきている」という現象です。
  いえ、政治の話でもなんの比喩でもなく、単純に右と左の区別が正しくついていない人が増えているという話です。

 長い間パソコンを通じた作業を教えていて、後ろから「はいその右側に...」とか「それを大きく左にドラッグして...」みたいなことをずっと言い続けていると、結構多くの人が、「えっと右ってどっちだっけ?」的に迷うのに気づきます。
 大概は自分で、あ、やっぱこっちは反対側だった、とかこちらの指示で直すんだけど、かなりあやふやです。 逆に自分が他人に指示するときは「あっち」「こっち」とジェスチャーを交えながら済ませています。 う〜ん、なんなんだこれは。

 仮説として一つ思いつくのは、最近は子供のうちに左利き矯正をしなくなったからかな、とも考えられます。 そう、昭和の頃は、右左を覚えるのに「お箸を持つのはどっち?」「お茶碗を持つのは?」と何度も何度も言われたのを思い出したからです。 
 つまり昔は体を使って左右の概念を理解したわけですが、今どき矯正を否定しても始まりません。

Udlr 一方で気づいたのは、上下を間違えることはあまりない、ということ。 上下左右という言葉通り、この四方向はワンセットであるのに関わらず、です。 これについてもあれこれ考えてみたところ、もしかすると漢字の形にその理由があるのではないかという仮説。

 日本人は「みぎ」「ひだり」「うえ」「した」から、年齢とともに「右」「左」「上」「下」と認識が変わるわけですが、たまたまなのか何なのか、「上下」はその文字の形そのものが上方向と下方向、いわゆるエレベーターのボタンと同じ形です。
 ところが左右は共に似たような形で、しっかりと学習しないと意味の差を覚えにくい関係となっています。 この結果、右がみぎ、左がひだり、とは覚えても、それが実際にどちらの方向かという理解(記憶)に強く結びついていないのではないかと思うようになりました。

 まぁ、それで何が困るんだ、と言われてあれこれ例をあげるのは簡単ながら、地図はGPSナビゲーションで、車は自動運転で、という流れの中、実はそれほど困らないのかもしれません。 他方、そういう人の空間認知はどうなってるんだろうという別の好奇心が湧いてきます。
 つまりは言葉での空間認知が曖昧な人は、加齢とともに実際に認知症になりやすいのではないかという興味です。

 何にせよ、日本は他言語の侵食がないだけで、ヒスパニック化著しいアメリカのごとく母国語が通用しにくい国になりつつあることは間違いありません。
 何とかしましょうよ>文科省の皆さん、それに群がる政治屋の方々

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小学校からプログラム教育

 小学校から英語教育、高校では全部英語で英語教育、とろくに日本語も教えられない日本の教育を司る文科省が、今度は小学生からプログラム教育をすると言いだしました。
 
 こいつらほんまに一流大学出てるんかね? と思わず低次元の文句を垂れたくなるこの話。 と非常勤仲間に切り出したら、いや、それは文科省じゃなく、何か実績を残さないと、と省庁にあれこれ気ままに口出しする政治家が悪いんじゃない?と言われて、それはそれで考え直してみたりもしますが、なるほど、これが成長戦略ですか。

 発表されてすでに時間が経過していますので、賛否両論ある程度出た中、とりあえず原本とも言えるの文科省のドキュメントを見た上で私なりの考えを書いてみたいと思います。

 ここで文科省自体が最初に書いているように、そもそも小学生に「プログラミングを学ばせたい」のではなく「プログラミング『的思考』を学ばせたい」のであって、そこのところの理解をよろしく、ということです。
 プログラミング的思考って?という疑問に対しては、この書類自ら「自分が意図する一連の活動を実現するために、どのような動きの組合せが必要であり、一つ一つの動きに対応した記号を、どのように組み合わせたらいいのか、記号の組合せをどのように改善していけば、より意図した活動に近づくのか、といったことを論理的に考えていく力」とはっきりと定義づけられており、それはそれで明確です。
 
 だが、それを学ばせるのに果たしてプログラミングが最適なのかというと、私はそうではないと思います。 というか何より問題なのは、この一筋縄では行かない単元に対して一定時間他の教科時間が削られるわけで、それでなくても小学生の頃の教育不足と思われる二十歳前の学生を毎年見せつけられている立場として、これ以上何を割くんだ、と訊きたいところです。

 何より最近言われるとことの言語力、つまりは日本語によるコミュニケーションがどんどん怪しくなってゆく中、まずはそこをちゃんとしないと、プログラミング教育も含めたすべての教育が子供に伝わらない、という当たり前の問題をはっきりと見直して欲しいのです。
 
 んでまぁ、恐らくはmit(マサチューセッツ工科大学)が開発したscratchか、あれを参考としたパチモンを使ったりするんでしょうか、あれも日本語版があるとはいえ、所詮思考は英語。 早期英語教育や、英語づけ授業どころか、義務教育の英語すら教えられない今の学校と生徒の状態で何がプログラミングなんだか、とも白けています。
 
 では何もしなくて良いのか、というと、全くそんな無責任なことは考えていません。
 上記貼り付けた「プログラミング的思考」ってのは今更独立して教えるものではなく、例えば算数、理科、工作、家庭科の主に理系科目の基礎をちゃんと教えることができていれば身につく問題だし、事実プログラミングがない時代に教育を受けた世代はそうしてこれまで遭遇した問題解決をこなしてきたわけです。
 おそらくこれまでも工作や家庭科などは真っ先に朝令暮改の教育改悪に侵されてきているはずですから、もうあとはどこから削るのかと首を傾げます。
 つまりはそういう基礎的な本来抑えるところが抑えられていないにもかかわらず、場当たり的な対症療法で解決しようとし、あわよくば日本社会の成長に結びつけようというところが低次元で安っぽい発想です。
 
 まぁ、でも冒頭に述べたように、これが文科省独自案ではなく、政治家のマーキング立ちションベン的ゴリ押し発想が発端だとしたら、ホント大迷惑な話です。 そんなのを最低二千数百万円も国民は金出し合って飼育しているわけで、ああ、なんてことなんでしょう。
 
 かつて、ゆとりを言い出した議員は今の白痴化社会を生み出した責任を何か取ったのでしょうか。

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2016春の面白いテレビ

 テレビといえばNHKとmotoGP、それにアニメくらいしか見ない私ですが、今季は珍しくドラマを見ています。
 
○それは「重版出来!」。
 原作はコミックで、以前から関係誌で紹介されていて、私も一巻は読んでいたのですが、原作を読み終える前にドラマ化されてしまいました。
 もともと仕事がグラフィックデザイン関連なので、業界、それもあまり縁の無い大出版社のコミック部門が舞台で、非常に興味深いことがいっぱい散りばめられています。
 話はすでに五話を経ていて、いま何より面白いのが「新人潰し」。 これはすでに音楽の世界で顕著で、ほんの数年前に大人気を博したアーティストが「今何処」状態にすぐなってしまう仕組みです。
 そこそこの実力のアーティストを拾ってきて、お手軽パッケージでデビューさせる。 いろいろなメディアを絡めて、全国ツアーが一度できればしめたもの。 そのうちギャラや待遇アップを要求してきたら「同じ値段で君らより実力あるのはなんぼでもおるねんで(なぜ関西弁なのかは不明)」とあっさり捨てる。

 同じ図式はアニメ制作、俳優や声優にも見られるんですが、コミックの世界での「新人潰し」が見られるとわかって、興味津々です。 ドラマでは、新しい漫画家をpixivから拾ってくるシーンがあって、思わず唸ってしまいました。
 いやほんと、大人って汚いのよ。 大人と大企業が生き残るために若者の才能がどんどん乱暴に食いつぶされてゆく時代なのです。
 
 
○アニメも放送開始から一ヶ月が経過、そろそろ取捨選択をする時期に急激に面白さを増しているのが「Re:ゼロから始める異世界生活」。
 最初は先の冬アニメでやっていた「この素晴らしい世界に祝福を!」の後追いリアリティゲームワールドかな、と軽く捉えていたら、実は私の好きなタイムリープ絡みの設定で、今では一週間の中で最も楽しみにしている作品となってしまいました。
 考えてみればゲームの世界でゲームオーバーやリセット、あるいは保存したところからの再開というのは一種のタイムリープであり、でもそれに着目して物語にした原作の着眼点に感心しています。
 あとはヒロインを筆頭とした女性キャラの超可愛さもあり、加えて新井里美や子安武人の存在もプラスだったりします。
 
 
○放送大学「データ構造とプログラミング」 これは偶然CATVBSのザッピングで見つけたのですが、いや、本当に興味深い内容です。
 いわゆるEテレでたまにやっている一般向け的な生易しいものではなく、本当に大学の専門過程レベルの内容です。
 これまで泥縄的にスクリプティングやプログラミングをやってきた私は、いつかこういう風に専門レベルの基礎知識を体系的にしっかり学んでみたいと思っていたので、まさに渡りに船。 この放送大学、カリキュラムを探すのがちょっとややこしいのが難点ながら、こんな感じで、今上っ面しか撫でていない知識をしっかりと補強していきたいと考えています。
 いや、単にいまさら他人に訊けない、ってだけなんですけど。
 
 まぁ、こうした切り方をすると、まだテレビ媒体は私にとって鋭さを失っていないわけです。

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