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文藝春秋、読前感想文

 昨日、ふらりと寄った本屋で文藝春秋九月号を買ってしまいました。
 もちろん、偶然手にしたのではなく、新聞の広告で芥川賞「終の住処」掲載のコピーに「十一年間嫁と口をきかなかった」という下りがあったので興味があったのです。(特に直木賞とか芥川賞には興味はありません)
 実際に買って目を通してみると、私がそのコピーで想像したような内容ではなく、取り敢えず「終の住処」を読むのを後日に回して(おい!)文藝春秋全体をパラパラ見てみることに。

 何より、本全体、目次の装幀から広告のレイアウトまで、懐かしい香りがします。
 父親がまだ生きていた頃、毎月こういう小説月刊誌を買っていたのがそのイメージの原点です。
 十代の頃は、とにかくこういう本を一冊読めるようにならないとダメだ、と思い込んでいて、毎月挑戦するんだけど、毎度挫折。

 十代、二十代の頃にこういう本を手に取ると、いかにも文学好きという格好良いイメージがしたのに、今この歳になると、なんてことはない、どんぴしゃのターゲット読者という感じで、純文学に縁のない私なんぞが書店のレジに持って行くときには一種の格好悪さすらあります。

 んで、あくまで「読前」感想文なのですが、先に書いた懐かしさと共に、私が持っている中高年のインテリな趣味というイメージが伝わってきます。 言い換えると、ちょっと高めのオフィス街の居酒屋がたまたま混んでいて、あちこちから聞こえてくる中高年サラリーマンのちょっと深い、でも実際にはどうでも良いような会話が詰め込まれているという感じです。

 とはいえ、思わず読んでしまったのが、芥川賞の選評。
 『レビューを見て本編を見たかのような気持ちになるな!語るな!』というような警鐘がよくありまして、誠に恐縮ながら、でもやっぱりこういうダイジェストは手っ取り早く面白い。
 これを読んでいると、選考委員が全員一致で結果を出したわけではないことがわかるし、ある人が酷評しているものが別の人が評価しているなど、何に限らず、絶対的な指標で決めることができない選考というのはこんなものなのかも知れません。

 というか、この選評を読んでいると、逆にその選考委員の人間性やらセンスやらをこちらが評価できるので、シニカル的にも面白いという。(山田詠美はやっぱり好きになれない、とかね)

 てなわけで「終の住処」に限らず、賞を取る作品というのはこういう海千山千の選考委員を引きつける、特殊な技が必要であることもわかり、あぁ、これは私が参考にするべきものじゃないと改めて痛感します。 やっぱり私には純文学は縁もゆかりもないということですね、はい。
 だって、小説月刊誌読破に挫折した頃に好きだったのは、獅子文六とか源氏鶏太、星新一ですからねぇ...

 あと、印象的だったのが、段落のレイアウト。 というか、改行、空白行の少なさ。
 システム上、行間が取れないパソコン通信時代に、読みやすさや時間経過と感情の転移を表すために改行を多用している私にしてみると、「終の住処」に至ってはまるで経典のようです。
 あぁ、私のスタイルってプロの世界じゃダメダメなんだ、とがっかりしていたら、唯一、渡辺淳一は私のような(と言ってもまだずっと少ないけど)段落設定で、ちょっとほっとしました。(とは言ってもこの「天上紅蓮」という題名でコードギアスを連想してしまう私は、あきまへんなぁ〜、ほんまに)

 てなわけで、まだしばらく休みもありますから、五十代にして「初」小説月刊誌完読を目指そうかと思っています。
 あ、「読後」感想文の予定はありません。 ←の、はずでしたが、コメントとして付け加えました。

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コメント

>>「読後」感想文の予定はありません。

 と、書きながらもひとこと。
 「終の住処」
 私、純文学の読解力無いのかな。
 全然何も伝わってきませんでした。
 全編客観的な視点で述べていながら、最後の最後で突然主観的になって、はいおしまい、っていう「実はこれだけが書きたくて構想をひねくっただけです」的な手法を幼稚とは見なかったんだろうか>選考委員

 内容よりも、再度選考理由を読むことで勉強にはなりましたが、こんな世界、私には無用です。

投稿: あやおば | 2009年8月12日 (水) 17時27分

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