衆目の中の死
本日、住んでいる地域の市民体育祭がありました。
例年この手のイベントはパスするのですが、先日たまたま地域の役員をやっている店主と遭遇。
「人がけぇへんねん。賑わいでええから来てな。弁当も出すから」と言われ、普段からこの手の地域おこしに携わっていないやましさもあって参加しました(決して弁当に惹かれたわけではない)。
少し遅れて参加したら、既に主な参加種目は出場メンバーが決まっていて、私はただ見るだけの雰囲気。(だいたい、いくらほぼ毎日水泳しているとはいえ、不健康なイメージが似合うクリエイター系は体育祭では影が薄い)
まだこの手の催しに参加する気がある娘を応援したりしてすごしていると、1000m走40歳以上のカテゴリーで最後に走っていた老人がゴール直後に昏倒。
中学校で開催しておきながらAEDが施されるような気配がなく、胸を押さえての人工呼吸のみで蘇生を目指すも起き上がる様子無し。野次馬になりたくなかったのでちょうとコースの反対側からそれを見ていました。
やがて救急車が来ましたが、ストレッチャーにのせられること無くずっと蘇生作業、さらに遅れて少し離れた救急救命センターから別の救急車が来てやっと搬送されて行きました。 ただ、この間遠目では心肺が蘇生した様子無しです。
まだ場内がざわめく中、競技が約半時間遅れて再スタートしましたが、昼食時にその老人が病院で死亡確認されたということで一同黙祷の後、午後からの予定は中止となりました。
たまたまこの贅肉の無いスリムな老人をスタート前に見ていた私は「へぇ、あんな人でも1km走るんだ」と思っていましたし、しかし案の定ビリになっても最後までは知る姿を見ていただけに、その人がほんの数分後に息を引き取ったことに非常に不思議な感覚を持ちました。
さらに奇妙だったのは数百人はいるであろう中での公開の死の瞬間に、全ての人が黙するわけではなく、雑談する大人、進行しないイベントに退屈して遊ぶ子供たちというそれぞれ異なる意識の空間を体験したことです。
いえ、別にそれが悪いとか、冷酷だと言うつもりは無くて、「あぁ、衆人環視の中の死ってこんなもんか」と冷静に感じてしまった、ということです。
いわゆる事故であり、これが最近ますます増える通り魔的殺人であればまた別なんでしょうが、でもその場であってもこういう別空間的な精神遮断を人間はするのかな、とも考えました。
この話を夕方、知り合いとすると様々な感想があったのもまた興味深く、
「歳とって無理したらあかん」
「また面倒なことになったな」
「棄権ではなく、とにかく1000m走りきった達成感はあった筈」
この一件に対して、これから様々な問題が起きるとは思いますが、「距離を短くしたらペースがあがり、伸ばしたらそれはそれで体への負担が増える。年齢制限しても元気な人は元気」という関係者のコメントも印象に残りました。
確かに筋骨隆々とした同年代と思われる別の爺さんは遅れながらも立派にそこそこのペースで走りきっていましたから、難しい問題でしょう。
結論としては自己責任。これをもって机上から過剰な規制論がでないことと、故人の冥福を祈ります。
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