死と涙
今朝バイト先に行ったら20年前からの知り合いが突然亡くなった事を知らされました。
思えば前途も見えないまま、取り敢えず前に進むしかないと東は仙台から西は広島まで自営業の営業に走り回っていた時にお会いした方でした。
急死と言うのはまさしく唐突で、病気等で何となく他人の寿命を案ずる間もなくやってきます。
この人とももっとイギリス文化について夜通しでも喋りたかったのに。
先日卒業生のブログで「どうして邦画は人の死でしか感動を呼べないのか」と書き込みがあり、その言葉がずっと気になっていながら自分なりの答えが見つけられずにいます。
先代のインコが死んだとき期せずして風呂の中で止めどなく涙が溢れた事、火垂の墓を見たとき、ノラネコのチビゴジラが死んだとき、全て「死」に所以しています。 悔し涙、絶望の涙、感動の涙も無いわけではありませんが、流れ出た涙の量は「死」絡みにかないません。(うれし泣きは無いなぁ...(遠い目))
最近は泣く事が感情のリセットに繋がるとの前向きな分析が出ていますが、男性だからでしょうか、私の場合それほどドライに涙を捉えられません。
奇しくも今日、冒頭の急死とは全然関係ない場所で知り合いの女性がホロホロと泣く場面に出くわし、言葉なんてなんの慰めにならないことを知っている私は「役に立てずにごめん」と静かにその場を去りました。
いや、ほんとはキラを抱きしめて何の邪念も無く「よしよし」と背中を叩いてあげるカガリのようなことをすれば良いとは分かっていたんですが、リアルな世界ではなかなかそうはうまく行きません。 いや、いろいろとね。
万感を込めてその女性の頭を「ポン」と軽く叩くのが関の山。
なんか30年程前にも夜中の陸橋の階段でそんな場面がありましたっけ。 いや、あの時は素直に抱きしめても問題は無かったんだけど...
非力ですね。 私も含めた人間って。
別にそれをいまさら悔いたり嘆いたりもしませんけど、軽やかに飛ぶにはあまりに重くなりすぎました。
先日遅めの墓参りに言った時、いのうえさきこの漫画の中にあった「この世でお供えしたり死んだものの名前を呼べばあの世では百倍になる」という話を思い出し、親戚と話していました。(ビール一缶が100缶になる!!!!)
精神的に最も辛かった時を支えてくれた(ように勝手に私が思い込んでいた)インコの名前「チュン太郎」、そしてやっと享年を私が乗り越える事ができた「親父」、たまに空に向かってつぶやく事もあります。
こんな私でも。
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