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ビートルズがこまどり姉妹にならなかった理由

 昨日、私の世代が'70〜'80年代に聞いていた洋楽がいわゆる懐メロにならなかった、と書きました。

 

 私が子供のとき、終戦直後から'50年代の曲を親が「懐メロ」として聞いていたとき、本当に何の感動も覚えませんでした。 その頃から私は音楽に目覚め、日本の曲からロック、そしてジャズへと引き込まれていった訳ですが、怖いと言うか気になっていたのはこうして自分が新鮮に感動した曲もいずれ父親たちの「こまどり姉妹」になってしまうんだろうか、という疑問でした。

 

 その時からずっと今日まで、必死で、とは行かないもののできるだけ新しい曲には注意を払ってきました。

 しかしある時点から新しい感動を覚える曲やアレンジ等が出現する事が減って来たような気がします。

 もちろん、自分の感性が鈍ってきた事もあるでしょう。 しかしそれにしても、なのです。

 

 よく言われる様に、まともな音楽のメロディ構成の順列組み合わせは既に使い果たされ、頭から最後まで全く新しい曲というのは確率的にあり得ない、と言われています。

 乱数的に音符を並べてゆけばまだまだあるとはいえ、それは既に我々がまともに聞く事ができる音楽ではありません。

 

 ブルース、ロックやジャズも含めたポップスというのが戦後生まれたものだとして、ステレオ化に続いて電気を使ったエレキギターやエレキピアノが生まれ、次にコンピューターが発達し、サンプリングや新しい録音・編集技術が次々と生まれていた間はまだ音符的にはともかく、人間の耳には新鮮な曲を作り出す事が可能だった様に思います。

 しかし'90年代にそれも底が尽き、次の何か、というのが生まれない閉塞状態に陥ってしまったとも言えます。

 

 その結果ラップと言う新しいジャンルも生まれた訳ですが、好きずきは別として、これは音楽の推移というよりも歌唱の変化だ、と指摘する声もあり、また、この新しいラップですら、数十年前のソウルやロック、果てはクラシックをサンプリングして曲を組み立ててゆく末路に早くも入り始めている様に思えます。

  

 結局、戦後急速に膨張した新しい音楽はここに来て袋小路に入り、かなり多くの部分を過去から引きずり出さざるを得なくなり、その結果、いつまでも'70〜'80年代の音楽が我々の耳から離れる事がなくなってしまったと言えないでしょうか?

 中には現在のノイズの全くないデジタル音楽時代以前のいわゆるLo-Fi処理をコンピューターで施して、最新なのに古さを装っている、という曲もあるのでなおさらです。

 

 考えてみればクラシックでは数百年前の、ジャズでもそろそろ百年くらい前の曲が今でもごく普通に流れている訳で、それらを過去のものとして生まれた音楽たちもいわゆる「定番」という一つの大きな侵しがたいカテゴリーが固定してしまったとも言えるかもしれません。

 

 特にTVを中心とした過去の曲の掘り起こしにより、この定番エリアはどんどん膨張していくでしょう。

 木村拓哉主演のドラマに使われた山下達郎の「ライド・オン・タイム」は25年前の作品でありながらうちの息子や娘は全く抵抗無く聞き入っていました。 ポンキッキに一時期使われていた「パレード」はさらに古い曲であるにもかかわらず、うちの子供たちにとっては「たったの」10年ほど古いだけの歌なのです。

 

 シャーリー・バッシーの曲に「ヒストリー・リピーティング」という唄がありますが、まさしく音楽も繰り返しの時代を迎えたのかもしれません。

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